
やっていこう」と書いてあります。
ひとみの姉が、ピアノを習っていたため、ピアノやオルガン、木琴などを弾いたり叩いたり、レコードはボリュームを上げて何回も何回も聞かせました。この世には、「音がある」ということを感じ取らせたかったのです。
そのころの補聴器は、箱型で線が見えていました。いやがった時期も少しありましたが、入浴時と睡眠時しか外したことがありません。ある日、家族四人で実家にお邪魔したとき、私たちの会話を母が聞いていて、「アラッ、ひとみちゃんがお母さんって言っている」と、それはそれは、大変喜んでくれました。そのときの様子が今も私の瞼から離れません。
五歳になって、「普通児の通っている保育園に通わせてみたらどうか」と教えられ、園長先生にお願いに行きました。その当時は、そんな例はありませんでした。保母さんと相談して、通園してもよいと言うことになり、ろう学校と地域のあすか保育園と半々通いました。
保育所へそっと見に行ったこともあります。大勢の健聴児とともに生活する第一歩、お客さんのようでもありましたが、保育所の先生のご慈愛で、保育所の卒業証書も頂きました。ひとみには、ろう学校幼稚園部の卒業証書と二枚あります。ひとみと私にとっては、両方とも人生の宝物です。
小学校は普通児と一緒に保育所に通った経験から、地域の桜井南小学校に入学しました。そのころ奈良県では、難聴学級のある学校は2校だけだったと思います。私どもの住んでいる桜井には、難聴学級がなく教頭先生、障害児学級の先生、担任の先生、私、ひとみと懇談して、
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